幻覚と,妄想。

母が心配しているだろうと思い,9時頃に電話を入れる。心配をかけまい,と思ったが,「どうだった?」と言われると,ついつい,愚痴ともつかない泣き言が自然に口からあふれ出た。母は,もうすでに家を出る用意をしていたようで,電話を切ったあと,すぐにタクシーでやってきた。母に父を見ていてもらっている間に,1階のレストランで,モーニングをがつがつ食べる。ホットドック,ゆで卵,アイスレモンティで300円。これに150円の特製サラダをつける。元気が必要だ,と思うと,「とにかく食べなきゃ」と思うのが,ワタシの短絡さ。味はあまりしない。10分ほどで飲み込み,急いで病室へ戻る。

午前と午後に,1回ずつ10分間の照射。緊急の手術が入ったため,予定が2時間おくれ,午後の最後の照射は4時になった。一刻も早く,3回の照射を終えて,父を開放してやって欲しいのに。父は朝から,何度も便が出る。お腹の調子がずっと悪いようだ。頭もますますハッキリせず,しきりに導尿の管を外したがる。「何時まで,こうしてなアカンの」と聞くので,「4時の照射が終わってから,針を抜くからね」と何度も説明する。そのたびに「へぇ!4時。大変なコトになったものやなぁ」と,心底驚いたような顔をする。泣きたくなる。

母と交代で,面会室へ行き,母が作ってきた梅干のおにぎりを2個ずつ食べる。

やっと4時になった。ベッドごと運ばれていった父は,1時間ほどして帰ってきた。股間の針は抜かれていた。父は「ただいまぁ」とニコニコして,「治療終り!苦痛はなし!」と手を振って叫んでいる。普段の父なら,絶対にこんな風に人前で叫んだりはしない。4人のナースがベッドを運んできてくれたが,そのうちの2人のナースが,「さ・す・が」「さすが~○○さん」と茶化すように言う。そのバカにしたような言い方にカチンとくる。ナースたちも,父の言動がかなりおかしいコトに気づいている。その2人は,昨夜,夜勤で,散々,父の排便に振り回されたナースだった。最後のほうは,露骨にふてくされた顔をして,面倒くさそうに父を扱った。ものすごく悔しい。何も言えない自分が,余計に悔しい。

針と共に,脊椎に通された麻酔のチューブも抜かれていた。しかし,点滴と導尿のカテーテルはまだ。点滴には抗生剤や止血剤が加えられた。父が一番嫌がっている導尿の管は,いつ抜いてもらえるのだろう。

部屋に帰って来た父は,熱があり,血圧も200近くになっていた。痴呆のような症状は,ますます強まり,導尿のカテーテルをしているコト自体,理解できなくなった。何度もトイレに行こうとベッドから降りようとする。針はもうないので,動いても問題はないが,ベッドから降りるコトはできない。何度も「おしっこがしたい。自分でできるからトイレへ行く」と起き上がろうとするので,「管がまだついてるから,行けないの!」と父を押さえ込もうとする。父はカッとして,「やかましい!」と怒鳴り,ワタシを突き飛ばそうとした。ものすごい力だ。廊下を通りかかったナースがあわてて「どうしました?」と,部屋に飛び込んできた。父はワタシを睨みながら「うるさいから,帰ってもらおうと思って」と言った。ショックだった。

腕につながっている点滴も気にいらないようで,何度も無意識にむしり取ろうとする。そのたびに,母とワタシが,父の手を押さえる。

かと思うと,「さっきは怒鳴って悪かったね」と謝る。ワタシは怒りよりも,ショックが尾を引いていて,「むぅ」と答える。なんだか父が,どんどん別人になっていくように思える。

夜になり,母が「今夜は私が泊まるわ。とても手におえんやろう?」と,弱々しい顔で言う。しかし,母も疲れており,背中を時折,さすっている。痛むのだろう。早く家に帰さなければ。ワタシは父がすっかり怖くなり,逃げ出したい気持ちで一杯だった。今夜,こんな父と2人きりで病室に残されるのは,たまらない。しかし,昨夜のような父につきあっていたら,母の体調は,確実に悪くなる。母に寝込まれたら,どうにもならなくなる。

泣きたい気分で「いいや,ワタシが泊まる」という。母がいる間に,ワタシは夕食を食べに外へ出た。「ザ・丼」で,かにツナ丼と,ミニ冷やしうどん。胃はどすんとしていたが,醤油を勢いよくかけ,ワシワシと食べた。いくら逃げたくても,自分の親から逃げ出すコトはできない。こんなの,全然たいしたコトない,逃げてたまるか,と自分を鼓舞しながら,勢いよく食べた。腹がいっぱいになると,ファイトが沸いてきた。

病室へ続く,4階の長い人気(ひとけ)のない廊下の窓から,いつも母と買い物にゆく,ローカル百貨店が見える。陽はとっぷりと暮れ,都会のように派手ではない,地味なネオンが夜空にまたたいている。それはそれなりに,美しい夜の風景。この,同じ場所から,同じ時間にこの風景を眺めるコトは,もうないだろうな,と,しばらく窓の外を見ていた。少しセンチメンタルな気分になる。

9時,母は,帰っていった。

今夜はベッドの上でなら身体を動かせるので,昨夜に比べれば,父は,ずっと楽なはず。いつも飲んでいる眠剤を飲んでも良い,と許しが出た。これでぐっすりと眠ってくれるだろう。「さてと,じゃあ,眠ろうかね。おやすみ」と父。「はい,おやすみ(今夜は眠れるな)」とワタシ。

ところが,予想に反して,薬がいっこうに効かない。父の頭はますますボヤけ,導尿のカテーテルを,初めて見るもののように持ち上げては「この管はどこからつながってるのか」と何度もワタシに訪ねる。「それはね,パパのおちんちんから,この袋につながってるの」と答える。「ああ,へぇ,そうか」と父。しかし,またすぐに同じコトを聞き,「大変なコトになったなぁ,このチューブ,どうしたらいいんやろう?」「あ,パンツに結んでおいたらいいか。それでトイレへ行く時は,パンツを脱いでいけばいいんや」「それとも,パジャマに結んでおいたほうがいいか?」などと,ずっと管のコトばかり喋っている。

11時頃,急に「トイレに行く」と立ちあがろうとしたので,「管がついてるから,トイレは行けないよ」と説明する。「じゃあ,管を外してくれたら,自分でトイレへ行くから」「管は,先生がイイと言うまで,外せないの」と,押し問答。それでも「小便がしたい,破裂する」と泣きそうになる父を,「だめ」と押さえつけている最中に「ウンコも出そう」と言い出し,「え?ウンコも??ちょっと待って,ちょっと我慢」とナースコールを押す間もなく,ブリブリブリとやってしまった。ナースが便器を持って飛んできたが,全然間にあわなかった。

たちまち下痢便の匂いが部屋中にたちこめる。夜中なので,部屋の外に出るわけにも,窓を開け放つわけにもいかない。その匂いに気絶しそうになる。お腹がゆるいので,買い置きしてあった紙オムツをつけてもらった。父は「情けないなぁ」とつぶやく。あぁ,頭がボケていても,紙オムツの屈辱はわかるのだ。「オムツしているから,また間にあわなくても,大丈夫だから。下痢してるから,オムツしたんだからね」と安心させる。父はまんじりともせず,天井を見上げている。

しばらくして,「ちょっと散歩してくる」と起き上がろうとし,「夜中やんか」というと,「夜中だからいいんや。ちょっとだけ歩いてくる」とベッドから降りようとする。これも必死でベッドに押さえつけて止めさせる。その後も,「このベッドは高すぎて,怖い,針がはずれるので地べたに寝る」「あ,玄関に誰か来た。ママかな」「ママの顔,干し柿みたいにしわくちゃになっている,どうしたんだろうね」「向きがわからなくなった。ベッドで外へ出る時は,足のほうから出るの?頭のほうから出るの?どっちだったかな」などと,支離滅裂な言葉が続く。一昨日から,ずっとベッドに寝たままなので,方向感覚がわからなくなってしまったようだ。

脳の薬を止めているせい,麻酔を使ったせい,ずっとベッドに寝て天井ばかり見ているせいで,頭がすっかり混乱しているよう。このまま,本格的に呆けてしまって,もう元の父に戻らないのでは,と不安にかられ,泣きたいような,恐ろしいような,なんともいえない夜をすごす。ベッドの下から見上げる父の横顔は,白髪の無精ひげがうっすらと生え,鼻の穴がかゆいのか,目をぽっかりと開いて天井を見つめ,しきりに鼻クソをほじくっている。見たコトのない父の顔。父はまるで別人になってしまった。

夜中にナースが,なんども尿のチェックにやってくる。針を抜く前から,次第に尿には血が混じりはじめ,すっかり真っ赤になってしまった。内部の傷から出血しているらしいが,これは普通の状態なので,心配はないそう。しかし,素人のワタシは,尿の袋に真っ赤な,どろりとしたトマトジュースのような液体が溜まっているのを見ると,頭がくらくらする。その血尿も,だんだん量が増えなくなってきた。水分が足りなくて,血尿が固まってきていると注意され,お茶を何度も飲ませようとするが,父は飲みたがらない。「水を飲むと下痢になる」と。昨夜,何度もナースの手をわずらわせ,最後には嫌な顔をされたことが,こたえたのだろう。可哀相なコトをした。

ナースから連絡を受けたのか,主治医のTドクターが,夜中の3時ごろ,やってきた。尿の量をチェックし,膀胱の入り口が血で固まりかけていたのを,洗浄してくれた。髭面の愛想のないTドクター。しかし,口数が少ないだけで,患者にも家族にもとても優しいドクターだ。

明け方,父が静かに眠り始め,ワタシも切れ切れだが,やっと少し眠れる。
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by rompop | 2004-08-27 20:08 | ホスピタル


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