救急車。

8時ごろ,目が覚めてトイレへ。階下で,弟と母の声がする。弟が怒っているようだ。「なんでそんなコトするの」という声が聞こえる。朝の風呂掃除と洗濯は,最近はずっと弟がしているが,母はいつも気がねしている。今日も,また,少しでも手伝おうと手を出したようだ。

また布団に入り,10時半に起きて,階下へ。母の様子が変だ。「めまいがする」と言って,布団にもぐりこんでいる。父が心配そうに母を見守っている。少し様子を見ていたが,「大丈夫」と言って立ち上がろうとした母は,ストンと転びそうになる。あわてて支えるが,気分も悪いらしい。寝ていて治まるような状態ではなさそうだ。

病院へ連れて行こう。しかし,思いのほかフラフラしていて,まったく力が入らないようだ。「救急車を呼ぼうか」と母に声をかける。タクシーで病院に行っても,外来で順番待ちをしなくてはならない。救急車なら,緊急ですぐに見てもらえるだろう。いつもなら,「ご近所にカッコ悪いから,絶対に救急車はダメ」という母が「救急車を呼んで」と言う。

2階にあがり,弟の部屋をノックして,「救急車,呼ぶ」という。弟の頬にさっと赤味がさし,すごい勢いで階下へ降りてゆく。ワタシは急いで,ジーンズをはき,トレーナーをかぶる。バッグに財布とタオルだけを入れる。土曜の朝。ご近所中の好奇の目にさらされるが,いたしかたない。救急車を呼ぶのは初めてで,指先が少し震える。

いつも母が通院しているM病院は,救急指定病院でもある。症状を伝え,既往症と通院していることを告げる。救急車の要請をしたことを病院に電話で伝えてください,と言われ,病院に今から行く事を告げる。

ほどなく,遠くからサイレンが聞こえ,救急車がやってきた。弟が外へ出て,車の誘導をする。玄関が開け放たれ,救命士が3人,部屋に入ってきた。さすがに早い。母を囲んで,脈を取り,血圧を測り,母に質問をし,青いビニール製の担架に移す。「背中を圧迫骨折しているから,注意してください」と,あわてて言う。

弟と2人,救急車に同乗する。不安そうな顔の父には,「電話するから待ってて」と言い聞かせる。

ワタシは,3回,救急車で運ばれたことがある。しかし,母は,こんなものに乗るのは初めてだ。緊張感と不安で,かえって血圧が上がるかもしれない。少し赤い顔をしている。顔をしかめている。気分が悪いようだ。ことのほか,救急車というものは,ガタガタと揺れる。スピードを優先するせいだろう。手を触ると,少し冷たくなっている。これで母にもし意識がなければ,ワタシはパニックを起こしているコトだろう。

数分で,病院に着いた。救患用の入り口から,ストレッチャーで運ばれる。待機していたナースの1人が,直前までお喋りをしていたようで,少し笑い声を立てていた。思わず,睨むと,彼女はハッとした顔をして,口を閉じた。病院といえども,彼女たちにとっては日常の場だから,笑いも出るだろう。しかし,通院していると,こういう無神経なナースが意外と多く,驚く。

集中治療室のようなところに運ばれ,ベッドに移されたあと,水分補給の点滴。母は糖尿のせいか,すぐに喉が乾く。朝,水を飲んだはずなのに,もうすでに口も喉もからからだ。「水を飲ませてやってほしい」というと,「今すぐ点滴を入れるので,大丈夫」と言われる。軽く脱水症状を起こしていたようだ。

救命士がメモにとった母の血圧や脈拍などを,ドクターに告げる。ワタシは迷った。弟と口論のあと具合が悪くなったコトを,救命士に言いそびれていた。弟の顔を見る。「言い合いのあと,具合が悪くなったんだよね」弟は,神妙な顔をして,うなづく。「それ,ちゃんと言ったほうが良くないか?」弟は,「言ったほうがいいと思う」と言い,じっと黙っている。思わず,「自分でちゃんと言って!ワタシは状況がわからないんやから」

弟は,ドクターに近づき,意を決したように白状した。「朝,僕とちょっと口論になり,そのあと,めまいが起こったんです」

救命士は,ちょっと驚いた顔をして,まじまじとワタシたち2人の顔を見た。ドクターは弟を見据え,「わかりました」と言った。

「検査をしてみないとわかりませんが」。母に手を握らせたり,視神経を確かめるために母の顔の前で手を動かしたり,あれこれ母に質問したあと,椅子に腰掛けてワタシたちを見た。

「高血圧ではありますが,めまいが起こって歩けなくなるほどの血圧ではない。難聴性のめまいというものがありますが,耳はちゃんと聞こえておられる。メニエール病のめまいというのは,左右に回転するのではなく,上下に“でんぐり返し”を起こすように,目が回ります。話を聞いていると,これでもない。一番怖いのは,脳に腫瘍や血の塊があっておこるものですが,こういうめまいは,1度起こると治まりません。手がつけられないぐらいまで,一気に悪化します。ですから,みたところ,めまいの中で一番多い,“頭位性(とういせい)めまい”ではないか,と思います。くわしくは,これから検査をしてみますが」

頭部のCTスキャン,心電図,胸部レントゲンと,ひととおり検査をしてもらう。点滴には,めまいを押さえる薬が混入され,注射を打たれた。注射を打つ前に「めまいを押さえるための注射をします。よろしいですか」と,確認される。しかし,こういう時「やめて下さい」といえる人がいるだろうか。ただ,「お願いします」と言う。

検査の間,待合室のベンチで弟と2人,所在なげに待つ。

さっきから黙っているが,弟はどう思っているのか。「年寄りに精神的に負荷をかけるようなコトをしてくれるな」と,あれこれ言葉を変えて,繰り返し話す。弟も,さすがに今日はこたえたようで,「救急車まで呼んでしまったのだから,これからは,言いたいことがあっても,全部胸に納めるようにする」だそうだ。こんなコトになっても,結局「自分が悪いのだ」という風には,ならないらしい。

「産まなければ良かった」と,いつだかに,口論の最中に母に言われたコトを,いまだにずっと恨んでいるようだ。「あれだけは,言ってはならないこと。存在を否定されたも同じだ」と,ワタシに訴える。実の母親にそう思われる自分というもののコトを,省(かえり)みる気持ちが必要ではないかの,と思うが,それは言わないでおく。頬を高潮させて,下を向いて黙っている弟の横顔を見ると,言えなかった。

ワタシも弟も,朝から何も口にしていない。少しフラフラする。自販機で乳酸飲料を飲む。

検査は1時間ぐらいで終わった。結果,それらしき原因は見当たらない。今日のドクターの見立ては,やはり,めまいの中で最も多く,原因も予防法も確率されていない,良性の「頭位性めまい」だとのコト。これは,たいてい,3日~1週間ほどで治まるが,半年以上おいて,繰り返し起こるらしい。そのつど,こうして点滴や飲み薬で押さえるしかない,という。

なんとも気持ちの悪い診断だ。原因ではないが,疲れやストレスが引き金となるケースもあるという。しかし,もしかしたら,このドクターの見立ては外れているかもしれない。母は耳の方も悪く,耳鼻科に通っていたコトがある。体中のあちこちが悪い。何が原因か,わかりにくいだろう。

点滴で水分を補給しているせいか,母はベッドに寝ている間に,2回,尿意を催した。ナースに聞くと「動かないほうがいい」とのことで,ベッドの上で採ってもらった。母は,すぐに尿が出ずに,しかめ面をしている。「情けないなぁ」とつぶやいた。「点滴してるからしかたないやんか」としかイイようがなかった。

2時を過ぎた。自販機で菓子パンを売っている。120円。ガラガラの待合室で,ナッツのついたパンを買い,むしゃむしゃと食べた。少し落ち着いた。弟にも「食べてくれば」と120円を渡す。弟は病室から黙って出ていった。ついでに,近くのスーパーで,食料品を適当に買ってきてもらう。卵,オレンジ,牛肉など,2袋さげて戻ってきた。

点滴が終りかけ,「心配だから一晩泊らせて欲しい」と言ったが,ドクターは母の様子を見て,「命に関わるめまいではないと思います。それに,入院となると,一晩だけ,というわけにはいきません。」と言う。「家で安静にしていて,おかしいようなら,いつでも,救急車でもいいですから来てください」と。母も「やっぱり家に帰る」と言うので,帰るコトにする。会計を済ませ,処方された安定剤をもらい,タクシーを呼ぶ。

4時前になっていた。母を布団に寝かせる。点滴が効いたのか,少し楽になったようだ。プリンを食べさせ,薬を飲ませる。

しかし,寝ていると大丈夫だが,トイレに立つたびに,ぐるぐるとめまいがし,フラフラとしている。とても1人では歩けそうにない。頭もフラフラするので,気分が悪くなる。

夕食は,父に電話をして頼んでもらった弁当。ワタシは牛丼を頼んでもらった。なかなか美味しい。弟が,もやしとワカメの味噌汁を作り,母のために卵焼きを焼いた。ワタシは,トマトを湯むきして切り,ゴーヤとツナのマヨネーズ和えを作った。

母は,食欲がない。ご飯を半膳,味噌汁を少し,卵焼きとたくわんで,なんとか食べ終えたが,やはり気分が悪いという。

「今夜は下で寝る」と,布団を持って降りて,母の隣で寝るつもりだった。夜中にトイレへ行く時に,父が支えたのでは頼りない。2人で転ばれたら,大変だ。

ネットを少しやり,8時過ぎ,母の様子を見に階下へ。「やはり入院させてもらえば良かった」と言い出した。気分がますます悪くなるようだった。いつもとやはり,少し違うカンジがする,と言う。「やっぱり病院へ行こうか」というと,そうしたい,と言う。一晩でも病院に置いてもらえれば,容態が変わっても安心だ。

病院に電話をする。「とにかく診察します」とのコト。入院を前提に,母が以前から用意していたボストンバッグを持って,タクシーに乗り,病院へ向かう。急な入院に備えて,新しいパジャマや下着,靴下などを,母は自分でバッグに詰めて用意していた。

夜の病院は,真っ暗で,シンとしている。診察室へ入ると,見たコトもない,若い当直医がいた。ふと「大丈夫かな」と思う。その気持ちが伝わったのか,その若い医者は,あれこれ横から口を挟むワタシを,「診察しますから」と言って,外へ追い出した。「入院させてくれ」って,母はちゃんと言えるかな,と心配になって,診察室のドアに耳をつけて,中の様子を伺う。

また心電図を取り,朝と同じ点滴を1本。中には,めまいを抑える薬を混ぜているらしい。あとで聞くと,点滴をしている間,その医者は,母の今までの分厚いカルテを全部読み,薬や症状について,あれこれ質問したそうだ。

ナースが出てきて,「3階の4人部屋に入ってもらいますね」と言う。「入れていただけるんですね」ホッとする。点滴のつながった母を車椅子に乗せ,3階へ。

4人部屋には,お婆さんが1人しか入っていなかった。窓際のベッドに母は入れられた。大部屋と違って,すっきりと広い部屋だ。高いのかな,とふと思う。さきほど受付の貼り紙を見ていたら,「個室と4人部屋は差額室料をいただきます」と書かれてあった。しかし,金のコトは,この際,しかたがない。

9時を過ぎていた。完全看護の病院なので,ワタシは付き添うコトはできない。ペットボトルのお茶を枕元に置き,1階へ行き,ロビーの自販機で,薬を飲むためのミネラルウォーターのボトルを買う。夜中にお腹が空いてはいけない,と思い,栗のアンぱんも1個,買う。母は空腹で低血糖を起こすと,具合が悪くなる。

点滴のせいか,母は落ち着いてきた。トイレへ行きたい,というので,連れてゆく。トイレからずいぶん離れた部屋だが,しかたがない。消灯時間を過ぎているので,あちこちの部屋から,寝息やいびきが聞こえる。

眠気がきたのか,母はウトウトしはじめた。母のトイレのコトだけが心配だが,2人のナースに「転ぶと困るので,トイレへ付き添って欲しい」と頼み,母には,「絶対に1人で歩かないように,ナースコールを押すように」と言い聞かせて,病室をあとにする。

外は強い雨が降っていた。無線でタクシーを呼ぶ。急な雨のせいか,時間のせいか,タクシーはなかなかやってこなかった。地面にしゃがみこんで,雨を見ながらタクシーを待つ。

帰宅。母が落ち着いたコトを告げると,父は少し安心したようだった。弟は「おかえり」と言ったが,複雑な顔をしていた。

母はもう寝たかな。ワタシも疲れた。気持ちがやりきれなくて,友人Mに携帯メールをした。彼女も劇団時代,母親が脳梗塞で倒れ,かなり危ない目にあった。父親も喉頭がんの手術を経験している。母親が倒れると,とたんに家庭の地盤がゆるむ。そのコトを,彼女はよくわかってくれるはずだから。
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by rompop | 2004-05-15 13:22 | ホスピタル


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